ゲーム産業の系譜

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1990-2000年代

ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け

第4回 ゲームを後世へ伝えるには…大学での研究教育とアーカイブ構想

ファミコンの後継機「スーパーファミコン」は、1990年11月21日の発売前から予約が殺到し、発売後も品薄状態が続くなど爆発的な売り上げを記録。ファミコンからスーパーファミコンに代が替わっても、競合機種に圧倒的な差をつけて切れ目なくシェアを堅持していました。このようなファミコン・スーパーファミコンの独占的な普及状態は、他業界から多くの共同プロジェクトの話をもたらしました。野村證券とは、ファミコンを端末として顧客への証券情報の提供や株式売買を行う通信ネットワークを共同で構築し、専用の通信アダプタなどを開発しました。「証券業界における顧客管理IT化の実験」という意味でも協力ができたと思います。

1995年には、スーパーファミコンを受信システムに用いた衛星データ放送に参画、専用の周辺機器「サテラビュー」を開発するとともに、ゲームソフトの配信やゲーム関連番組の放送などを行いました。経営上の諸問題によりやがて撤退せざるをえませんでしたが、インターネットとは違う方法で全国にコンテンツを届けるという一つの夢を見せてくれました。宇宙から降ってくる情報を地上で受け取れること自体、実にマジカルな世界でとても面白いと純粋に思いますし、最近は人工衛星も100万円で製造できるようですから、「任天堂衛星」を打ち上げたら、世界中を相手に何か不思議で楽しいことができるのではないかと今でも夢想しています。

私自身はこの当時から、こうした衛星データ放送の通信技術について、またファミコンをはじめとするゲーム機開発、はたまたゲーム全般に関して、頼まれて講演をしたり論文を書いたりすることがたびたびあったのですが、2003年に立命館大学から招聘を受け、同大学大学院先端総合学術研究科教授に就任、デジタルゲームの学術的研究に本格的に取り組むことになりました。現在は映像学部に転籍し、客員教授を拝命しています。

大学では、デジタルゲームを含めてその源流となった遊戯全般の歴史の研究を続け、学生に向けては「遊戯史概論」という講義をもう10年以上、毎年行っています。「遊戯史概論」は映像学部だけでなく法学部や産業社会学部などの学生も受講が可能な全校開講で、ありがたいことに受講希望者が定員を上回り抽選が必要な人気講座になっています。加えて今年は、初めて海外からの短期留学生も15人ほど受け入れることになりました。彼ら彼女らは非常に優秀で、レポートも多くの学生がきちんと日本語で書いて提出してきます。日本語は、やはり日本のゲームがきっかけで習得したそうです。ノルウェーの大学から来た学生は「ゼルダの伝説」の超マニアで、私より断然詳しいんですよ(笑)。また、あるフランス人学生は、日本の遊び文化についての私の講義レジュメを全文英訳し、薦められた参考文献を英語版で読みこなした上で、漢字を交えた見事な日本語でレポートを表裏びっしり書いてきました。今では学生たちの毎回のレポートを読むのが楽しみで仕方ないんです。彼ら彼女らのこうしたゲームに対する情熱をみていると、日本のゲームが世界に影響を与えていることをひしひしと感じますね。

現代の日本のゲーム文化は、たしかに米国発のコンピュータゲームを採り入れることから始まりました。しかし、私たち任天堂がそうであったように、日本人はもともと、海外製品をそのまま販売するとか、そのままなぞって生産するだけで済ませることを好みません。NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」でも描かれましたが、たとえば、現在、世界から高級品として賞賛されている「ジャパニーズ・ウイスキー」は、スコッチ・ウイスキーを日本で作りたいという夢を抱き、本場・スコットランドで習得した製法の再現に挑んだ日本人が、日本の風土特性に合わせて工夫を重ねた末に生み出されたものです。このように、海外の優れたものを一度すべて分解し、咀嚼した上で再編成・再構成することで、結果としてその価値を高め、世界中に普及してきた日本製品が数多くあります。ただ、ウイスキーのような「モノ」ではなく、「体験」ができる遊び文化として世界中に普及した日本製品は、ビデオゲーム(テレビゲーム)が初めてなのではないでしょうか。ただ、日本人向けに最適化した製品が海外でも評価されている理由は、私たち日本人自身にはわかりませんが…。海外の研究者による解明を待ちたいと思います。

元来、日本の遊び文化というのは実に奥深いもので、たとえば平安貴族たちは、貝殻の模様を愛で、それを題材にして和歌を詠んだりします。貝殻の模様の美しさや和歌の上手さなどというものは、五感で味わうもので絶対の基準はありません。ところが平安貴族は、これに優劣をつけて競い合い一日中遊ぶのです。数値化できない感覚的なものと、ゲーム性のある数値化できる遊びをうまく組み合わせて、きっちりエンターテインメントに仕立ててしまいました。遊びに賭ける平安貴族の心意気はすごいです(笑)。こうして生まれた雅な遊びの数々は江戸時代になって庶民化し、様々な層に広がっていきます。特に京都あたりでは、みんな小さい頃からそういう遊びに親しんでいて、庶民の隅々にまでその体験が文化として染み込んでいたことだろうと思います。新しい遊びをゼロから創り出すのは難しいことですが、こうした文化の積み重ねが日本の遊びの引き出しにたくさん詰まっていたからこそ、日本人が現代の新しいゲーム文化を創り出すことができたように思うのです。

立命館大学には、このような伝統的な遊戯から最新のデジタルゲームに至るまで、ゲーム全般の専門的かつ総合的な学術研究を行う「立命館大学ゲーム研究センター」という組織があります。私はそのセンター長も務めているのですが、本センターの研究プロジェクトの一つ「デジタルゲームのアーカイブ構築プロジェクト」にも、その責任者である細井浩一先生(立命館大学映像学部教授)とともに携わっています。この「ゲームアーカイブ」というのも、また結構難しい問題を含んでいるんです。

たとえば、ファミコンで遊ぶ感覚を100年後にも味わうことは、ファミコンの実機が100年後も保存され正常に作動さえすれば可能でしょう。しかし、実は現物保存というのは案外難しいものなのです。米国のスミソニアン博物館に、「アポロ11号が1969年に月面着陸したときの宇宙服」が保存してあるのですが、塩ビ系やアクリル系樹脂のプラスチック部分の分解が始まり、劣化の兆しがみられるそうです。ファミコンはというと、本体にABS樹脂を使用しており、ABS樹脂はやがて自らが発するガスによって自己分解されていきます。これを完全に防止するには、保管場所の換気を定期的に行い、ガスを取り除き続けなくてはいけません。これはかなり手間がかかる作業です。

そこで、ゲームアーカイブの手段としては、本機同様の動作を再現するエミュレータを用いてゲームデータを保存するのが現時点では最有力でしょう。加えて、実際のゲーム画面やプレイシーンをビデオ映像で保存することで補完するとよいと思います。実際、立命館大学のゲームアーカイブプロジェクトでは、この「現物保存」「エミュレータ」「ビデオ映像」の3種類を保存することを原則として実践しています。

もっとも、「100年後にファミコンを再現できたところで、いったいどんな価値があるのか…」という疑問もないわけではありません。100年後の人に「21世紀の初めはこんなチャチなもんで遊んでたんだな」と思われるのか、「今のとあんまり変わらんなあ」と思ってくれるのか…そんなことを21世紀の初めに知りたいと思っていること自体が、単なる自己満足かもしれません。本気で網羅的に収集保存するなら莫大な資金が必要ですしね。結局は、今、それを繋いでいく人たち、その後に続いていく人たちの気持ちで決まるんじゃないでしょうか。

研究者としてではなく、開発者としての立場で言えば、「過去に作ったものを振り返ってアーカイブする」という発想はないんです(笑)。ユーザーが、たとえば「30年前にこんなのがあったねえ」と懐かしんでくれるのは嬉しく思いますし、メモリアルとして祝ってくれるのはとてもありがたいことです。しかし、作る側としては、「自分で作ったモノはその瞬間から全部ライバルになっていく」のです。30年前のモノなんて「超えていくのが当たり前」であって、超えられなかったら恥以外の何者でもない。過去を超えていかないと、ユーザーは絶対メモリアルにしてくれません。だから開発者にとっては、「記念などというものは存在しない」のです。

私が遊戯史を研究する中で、エジソンやニュートンも同じような感じだということに気づきました。たとえば、エジソンは円筒式レコードを発明しましたが、後に発明された円盤型レコードのほうが市場で優位に立ちました。エジソンは円筒式レコードの改良を重ねてしばらく対抗し続けるのですが、勝負の趨勢は決したと判断し、ついに自身も円盤型レコードを発売するに至りました。「自らの意地を通して最後まで戦い抜き、でもいよいよ負けたと思ったらスパっと切り替えて実を取る。」そういった哲学なども本当によく似ていると思います。

歴史上の偉人というのは、得てしてそういうものなのかもしれません。これはデジタルゲームの世界に限ったことではなく、古今東西、科学技術の歴史の節目には、「こういう一種の『変わり者』というか(苦笑)、『傑出した人物』が出てくるのだなあ」ということを実感しています。

これまでファミコンをはじめとするテレビゲームに関わってきて、今あらためて感じるのは、「『映像で遊ぶ』ということについて、凄い実験を人類がやったんやなあ」ということです。昔、映像で遊ぶといえば影絵くらいしかなかった中で、映像という形でここまで世界を構築できて、その中で実際に遊ぶことができて、それを人々が評価するっていう文化ができた。こうやって完成した遊び文化は絶対残るはずです。そういう意味では、ソフトウェアのアーカイブは放っておいてもできると思いますね。遊びの文化の場合、その遊びの中身は無理矢理に残さなくても自然に残るものだと思います。手段、方法論はたくさんありますから。

いま私が指導している映像学部の中にも、おもしろいアイディアをどんどん出してくる学生がいっぱいいます。アイディアというのは一人で悶々と考えているより、大勢でワイワイ喋っているほうがより良いものが生まれるものです。「言霊」というように、アイディアは言葉にして外に出すと不思議な力を帯び、人の心もちも変わってきます。私の講義も、それを聴いている学生たちの表情や、出席カードのコメントやレポートといったフィードバックがあって初めて手応えが見えてきます。言葉の出し手と受け手の共同作業なんです。だから一人だけでやるのではなく、多くの人たちの考えを採り入れて、さらにまた新しい遊び文化を作ることができたら、それが自ずと生き残っていくのだと思います。

ゲームの世界は、「進歩」というより『変化』しています。しかも、できるだけ繊細に五感をくすぐる方向への変化が求められています。これは日本人の最も得意とする分野ですから、任天堂には、いち早くその新しい遊び文化のアイディアを採用して生き残っていってほしいですね。かつて私がシャープ在籍中、あちこち外回りをしていた時代の任天堂には、そういった新しい「変化」に対する貪欲な匂いがとても強く感じられたものです。いつもの巡回コースの最後、午後6時頃に当時上高松町にあった任天堂に寄って、横井(軍平)さんと夜食の鍋焼きうどんを食べながら、あれこれ新しいアイディアについてワイワイ議論を交わしていた、あの頃に感じていた雰囲気です。横井さんの強烈なキャラクターに引っ張られて、毎日が新鮮な発見に溢れていた独特の感覚です。

「前のもんはライバルや!」「面白ければええやろ?」という気持ちで、前例に囚われず、いくらでも気楽に衣替えしたらいいんです(笑)。任天堂はずっと「遊び」だけを純粋に追求してきた会社なのですから、ブランドイメージにこだわることなく、そういう割り切りが可能だと思いますし、生き残っていける最右翼の会社であると信じています。

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上村 雅之 立命館大学 映像学部 客員教授

上村 雅之
(Masayuki Uemura)
立命館大学 映像学部 客員教授

1943年、東京都生まれ。幼少時より高校卒業まで京都在住。1967年千葉工業大学工学部電子工学科卒業、早川電機工業株式会社(現・シャープ株式会社)入社。光半導体の光検出器販売部門で製品の開発および営業活動を行う。1971年任天堂に移籍。開発第2部部長として1983年に「ファミリーコンピュータ」を発表。大ヒット商品を世に送り出す。2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任。2015年度末まで任天堂株式会社では開発アドバイザーを務め、現在は立命館大学映像学部客員教授。