ゲーム産業の系譜

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1980-1990年代

ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け

第3回 ファミコン苦難の船出からブーム爆発、スーパーファミコンへ

苦心を重ねた末、1983年7月15日に発売が開始された「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」でしたが、順風満帆の船出というわけにはいきませんでした。私は発売開始前から自宅に試作機を持ち込み、息子たちに遊ばせてモニターになってもらっていたのですが、以前の光線銃ほどには盛り上がらず間もなく興味を失っていきました。後にブームを巻き起こすほどの大ヒットとなり、息子たちの友達が大騒ぎするようになって初めて、息子たちはファミコンが売れている状況を知ったのだそうです。

そして山内社長も1983年のこの時期、ファミコンの勝算については基本的にずっと弱気だったと思います。というのも、売上の伸び悩みに加え、さらに追い打ちをかけるように、次々と製品にバグが見つかったからです。

「ドンキーコングJR.」では、「ある程度ゲームを進めていくと、何かの拍子にバナナがどこかに飛んで行く」という事象が発生。同年12月に発売した「ベースボール」にいたっては、「ある条件下でダイヤモンドの白線が消えてしまう」という、野球ゲームにとって致命的なバグが確認されました。いずれも「グラフィック表示用チップの発熱が過度に高温になってしまうこと」に起因するようです。時はまさにクリスマス商戦目前でしたが、山内社長の判断により対象のゲーム機ロットは出荷停止、全品回収という措置をとらざるをえませんでした。

車で外注先を走り回り、在庫品、回収品を運び込んでは直し、当社の工場長には散々どやしつけられながらも、どうにか全品のバグを修正し、製品を市場に再投入しました。1983年当時は、エポック社の「カセットビジョン」シリーズをはじめとするカセット式テレビゲーム機に加え、評判を呼んでいた各社MSX機など競合機種がひしめいていて、一歩間違えればファミコンは再起不能だったかもしれません。

バグ問題はひとまず収束したものの、依然として販売台数は伸び悩んでいました。もっとも、山内社長はこのような事態をある程度予測していたようで、販売開始後の施策について既にいくつかの構想を持っていました。その一つは、「ファミコンの海外展開」でした。国内外の動向を見極めつつ、1985年1月、ラスベガスで行われたCES(Consumer Electronics Show=米国最大の電子機器家電の見本市)に初めて参加、北米での展開を具体的に探り始めました。続いて同年6月、シカゴで開催されたCESに、日本国内の「ファミコン」という名称を変え、NES(Nintendo Entertainment System)の新名称で初出展しました。

ところが、当時の米国市場は1982年末頃から始まった「アタリ・ショック」以降、家庭用テレビゲーム機市場が急速に減退し、代わりにパソコン仕様のゲーム機がすっかり主流になっていたのです。MSXを中心に、アタリもパソコン仕様の機種を出していましたし、AppleのMacintoshも登場していました。カセット式の家庭用テレビゲームに対する米国の流通の反応は予想以上に厳しく、NESは全然相手にされませんでした。私も当時何回も渡米し、その厳しさを肌で感じていました。

その中で唯一興味を持ってくれたのが、玩具小売チェーンの「Toys "R" Us(トイザらス)」でした。ニューヨークの店舗にNESを置かせてもらえることが決定、1985年10月18日に販売を開始しました。投入した5万台のうち3割が売れ残ったと聞き、少しガッカリしたのですが、ニューヨークで70%売れたら実は大成功なんだそうです。引き続きサンフランシスコでプライベートショウを行った頃には、NESの人気に火がついていました。今にして思えば、私たち日本人がかつて米国発のコンピュータゲームにカルチャーショックを受けたように、私たちの「ファミコン/NES」は、そのとき確実に米国人にカルチャーショックを与えたようでした。

山内社長が描いていたもう一つの販売施策は、のちに「ディスクシステム」と名付けられる、ゲームデータ書き換えシステムの導入でした。ファミコン発売当初からしばらくは提供タイトルもまだ少なかったので、ユーザーを飽きさせず、またファミコン離れをさせないためには、新しいタイトルを次々と提供していく必要があると社長は考えていました。ただし、それぞれのソフトの単価が高くては何本も買ってくれません。量産するにしても、相変わらずなかなか半導体が手に入らないという事情もありました。そこで、社長は「(書店でパズル雑誌を販売するような感じで)パズルゲームのような手軽で安価なタイトルを数多く用意し、販売店に設置した機械にそれらのゲームデータを収蔵しておいて、販売店に訪れたユーザーが、書き換え可能な記録媒体を使ってデータを取得できるようにしたらどうか」と考えたのです。のちに実現する、「販売店店頭に置かれた『ディスクライター』による書き換え販売サービス」のことですが、現在でいうところの「ダウンロード販売」に近い考え方ですね。

こうして「ディスクシステム」の開発が始まりました。記録媒体については、検討の末、「容量111キロバイトの書き換え可能な磁気ディスク」を採用することになったのですが、111キロバイトというのは当時の主流ROMカセットの容量の約3倍に相当しました。このことは、私たちハード屋の思惑とは別に、宮本君のようなソフトウェア畑の人にとっては違う意味で魅力的に映ったようでした。宮本君は、「これだけの容量があるのなら、RPGやアドベンチャーゲームのような物語性のあるゲームを作れるのではないか」と考えたのです。話は前後しますが、エニックス(現: スクウェア・エニックス)が「ドラゴンクエスト」(1986年5月27日発売)を作るときも、ROMの容量が限られていたためとても苦労していましたからね。しかも磁気ディスクですから、ゲーム経過のデータセーブも可能です。パズルゲームを量産するつもりだった社長もこの意見に同調し、ディスクシステムのソフト開発については、当初のカジュアル路線に加え、RPG的な長編ゲームも展開していくことになりました。

折しも、宮本君がディレクションをし、1985年9月13日に発売したファミコンソフト「スーパーマリオブラザーズ」が大ヒット。空前のファミコンブームの中、1986年2月21日、いよいよディスクシステムの販売が始まりました。同時発売された対応ソフト第一弾の一つに、宮本君がソフト開発した新作ゲーム「ゼルダの伝説」がありました。のちに人気シリーズとなるアクションアドベンチャーです。この「ゼルダの伝説」の評判とも相まって、ディスクシステムは販売開始直後から一気に売り上げを伸ばしていきました。

ところが皮肉なことに、半導体技術の進歩は目覚ましく、容量が飛躍的に大きくなり、またROMカセットでもゲームデータのセーブが可能となったため、ディスクシステムの優位性は急速に低下してしまいました。また、過剰生産により半導体の価格相場は大幅に下落しており、大容量・高性能・低価格の半導体が容易に入手できる環境になりました。こうしてディスクシステムは、数年でその役割を終えることになったのでした。

もっとも、我が開発第2部ではその当時、「ディスクシステム後」を見越して、ファミコン後継機である16ビット機「スーパーファミコン」の開発構想をすでに進めていました。ここで少し時間を遡ります。

ディスクシステムの発売を前後して、自社製品の記録媒体を任天堂に売り込みに来た方がいらっしゃいました。ソニー情報処理研究所(当時)の久夛良木健さんです。ソニーは当時、ランダムアクセスが可能な小型フロッピーディスク状の磁気式記録メディア「2インチフロッピーディスク」のビジネス展開を行っており、当社へその提案に来られたのでした。「2インチフロッピーディスク」はディスクシステムには間に合わなかったものの、久夛良木さんは以降、頻繁に当社にお越しいただくようになりました。

また、ソニーからは「2インチフロッピーディスク」の提案と併せて、久夛良木さんが設計開発した「新デジタル音源システムAPU(注)」をスーパーファミコンのゲーム音源に採用してくれないかという話をいただきました。任天堂は提案いただいた久夛良木さんが設計開発した「新デジタル音源システムAPU」の一部仕様を任天堂のゲーム開発のノウハウを活かした最適な仕様に変更させていただくこととして採用させていただくことにしました。久夛良木さんはファミコンの「ピコピコ音」が我慢ならなかったようですが(苦笑)、当社としても、スーパーファミコンで使用する新たなゲーム音源を検討していたところだったのです。

山内社長からもOKが出て、スーパーファミコンにはPCM音源を採用し、音源チップとしてソニー製DSP(Digital Signal Processor)を搭載することが決定しました。製品化に向け、ソニーにはDSPの仕様を任天堂のゲーム開発のノウハウを活かした最適な形に一部変更していただくこととし、またプロセッサの量産体制も整備していただきました。

このような紆余曲折と何度かの発売延期を経ながら、また、NECホームエレクトロニクス(当時)の「PCエンジン」やセガ・エンタープライゼス(現・セガゲームス)の「メガドライブ」など次々と競合機種が登場する中、スーパーファミコンは1990年11月21日に発売されました。その後、ソニーとのスーパーファミコン用CD-ROMドライブ搭載機の共同開発プロジェクトもありましたが、何というか、ボタンの掛け違いがあったのか、どこかで一つボタンを飛ばしたのか、このプロジェクトは頓挫してしまいます。


注:新デジタル音源システムAPU ソニーの久夛良木健氏が設計開発したサウンド処理システム。「カスタムCPU」、「画像処理システム(PPU=Picture Processing Unit)」とともに、スーパーファミコンの主要機能ブロックの一翼を担う。「APU」は「Audio Processing Unit」の略で、当時、任天堂社内の呼称として使用されていた。「スーパーファミコン専用カスタムDSP(Digital Signal Processor)」および「スーパーファミコン専用サウンドプロセッサ」の二つの半導体チップにより構成されている。

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上村 雅之 立命館大学 映像学部 客員教授

上村 雅之
(Masayuki Uemura)
立命館大学 映像学部 客員教授

1943年、東京都生まれ。幼少時より高校卒業まで京都在住。1967年千葉工業大学工学部電子工学科卒業、早川電機工業株式会社(現・シャープ株式会社)入社。光半導体の光検出器販売部門で製品の開発および営業活動を行う。1971年任天堂に移籍。開発第2部部長として1983年に「ファミリーコンピュータ」を発表。大ヒット商品を世に送り出す。2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任。2015年度末まで任天堂株式会社では開発アドバイザーを務め、現在は立命館大学映像学部客員教授。